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てんもうかいかい菜園ス

 今年の夏も猛暑でした。梅雨明けも早かったのでかなり体にこたえました。追い打ちをかけるように残暑も厳しい。もう9月だというのにまだ盛夏がつづいているよう。が植物は健気というか秋の準備を始めるのです。まだ残暑が厳しいのに花をつけている。つまり種を付ける準備をしている。ニラの白い花、モロヘイヤの黄色い花。小さな花たちが風に吹かれて踊っている。そんなとき「天網恢々」という言葉を思い出すのです。そうかもう秋なのかと。そして私もハクサイ、ダイコンなど秋作の準備に取り掛かるのです。

 

 「天網恢々疎にして漏らさず」という格言をご存知でしょう。一般的には悪いことはいずれ天に罰せられるという意味で使われるようです。しかし本来は天の摂理は荒い編み目のように見えて何ものもそれから逃れることはできないという老子の教えからきてます。天然自然の摂理は疎かにできないのよという戒めでしょうか。農的営みもその摂理に従って行われます。またその摂理を解明するのが自然科学です。では農的営みが自然科学に従属するのかというと、そうでもないような気がします。今回は少し「菜園ス」、つまり農的営みと科学的思考について考えてみます。

 

  この夏のもうひとつの変化というか異変について。菜園にバッタが多発して食害がひどい。どれぐらいひどいかというと個体数が増えてくると悪食になるのかマリーゴールドまでかじられている。これ虫よけに植えたのですが・・・。勿論夏野菜の葉っぱも丸裸。今のところニンニク・鷹の爪エキスを作物に散布して様子を見ています。少しは効果があるようです。それに圃場の草を刈って全部菜園の外に出す。自然農としては作土を裸にするのはまずいのですが、やむをえない。代わりに他所から刈草を入れてマルチにするつもりです。まあ冬にはそれも外に出さないとバッタの個体数を減らすことは出来ないでしょう。えらい手間ですね。もっとスマートな方法はないものか?勿論農薬使うのが手っ取り早いのですが、それはいやだ。でいろいろ夢想する。馬酔木の自然農薬とか、木酢液とか。今どきゲノム編集のキットがネットでも手に入るそうだから、バッタの遺伝子を改変して繁殖できないようにしてしまうとか。まあ冗談ですが。そこまで考えて「虫送り」てのもあったよなと思い至りました。我ながら落差が激しい。スマートの正反対。非科学的な迷信か。いやいや農薬やゲノム編集を使わないのなら、それも一理あるのではないか。草を菜園の外に出す、それを燃やして送り火とする。そして、祈る。菜園の美学にはしっくり馴染む。とくに祈りはセンスオブワンダーの感度を高めることにつながると思います。伝統行事としは初夏に行われるようですが、自然農的には秋冬がよいような気がします。カバープランツの端境期だし。

 

 私は自然農原理主義ではありませんので、人が農薬使っていても気にしません。お隣が大型機械で土を耕しても平気です。ただ自分は自然農の方が性に合っているからやっている。で考えるに自然科学に過剰に依存するのを避けているのではないかと思うのです。だから農薬や機械に依存しない自然農に魅かれる。そして虫送りのような自然科学を相対化するような行動原理にも魅かれるわけ。それをとりあえず「菜園ス」と命名しましょう。

 

 正直に申し上げますと私はこの菜園スという造語の背景にフランスの人類学者のレビ・ストロース(故人)が提唱する「野生の思考・ブリコラージュ」を重ねています。人の野生というと狩猟採集の民のことだと思われがちですが自然農を長くやっていると生態系に同化する方が楽なことに気が付くのです。つまり野生の思考は農的営みにも応用できる考え方だと思うのです。たぶん天の摂理というのは二種類あるのではないか。自然科学と野生の思考と。でね、この二つのバランスが大切だと思うのです。どちらかに偏り過ぎると危うい。ハイテクの塊のような農業も危ういし、宗教のような農業も危うい。たぶん人類が今の様な文明を築くことにこの二つの要素が不可欠だった。今は科学技術万能のように思われがちですが、どうも無意識の行動原理はまだまだ野生の思考の方が優勢な気がします。それを菜園スで自覚できれば、もう少しは気楽に生きやすくなるのではないでしょうか。