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自給自足はサブカルチャーである

 写真は秋の拡張&大改良に先立ち菜園作土の調査をした時の様子です。土壌改良用に蒔いたイタリアンライグラスの根が30センチほど地下に伸びています。本当はもっと伸びてるはずなのですが・・・。やはり重粘土の畑で不耕起というのは厳しいかもしれません。

 さて、ブログの更新が滞っています。というのもこの数カ月かなり真剣に自給自足について考えていたからです。その結果言えることは、現代において自給自足は実現不可能なものと割り切った方がいいと思うようになりました。いや生活様式を新石器時代ぐらいまで遡れば可能にはなるかもしれません。しかし、現代人にとってごく普通のライフスタイルを支えているモノはまずほとんどが工業製品であり分業の産物です。そのような産物を消費する欲望こそが資本主義のエンジンなわけで、それを部分的にせよ否定するのはかなりのストレスになるか、ただの自己満足でしょう。

 自給農をテーマにしているのに身もふたもないではないかと怒られそうですが、自給自足の不可能性、それこそが現代における自給自足の存在理由なのです。少し説明しましょう。

 文明の発生と分業の発生はリンクするという説があります。ヒトという種は集団で行動するのが本来の行動特性であり、その時に潜在能力も発揮される。現代生活を支えているインフラや便利クッズは全てその成果なのです。つまり、ひとりで何でもやってしまおうという自給自足の発想は退行的ということになる。実際、文化人類学者による研究でも集団が縮小すると文化や技術が停滞するだけでなく退行してしまうそうです。ついには新石器時代のような狩猟採集生活に戻ってしまう。それこそ自給自足ですね。(新石器時代=縄文というのも興味深いですけどね)

 

 ただし現代では専門分化が極端に進んでいます。国際分業なんてのも普通です。コンビニの棚を一巡りすれば一目瞭然。国産品を探すのが難しいぐらいです。そんな中で分業に過剰適応してしまうこともあるわけで、都市では水を得た魚のようにスマートに生活できる人が、自然環境には適応できないということになったりする。先の大震災でそれを痛感した人も多いと思うのですが。そのような意味では分業の極致ともいえる現代生活の中にあって自給自足的ライフスタイルの重要性が再発見されるのではないでしょうか。

 

 まあしかし、自給自足は災害時や自然の中でサバイバルする重要なスキルではあるけれど、圧倒的な現代文明と科学技術の前ではやはり前時代的なスキル、つまり特殊技能でしかありません。

 そこで提案です。その特殊技能をスポーツのように捉えることが出来るのではないか。そして特殊技能を洗練したり文化に昇華したりできれば素敵です。そう野球やサッカーみたいに。ホビーと言ってしまうと身も蓋もないけれど、まあサブカルチャーとかライフスタイルの正当ないちジャンルと考えてみてはどうでしょう。即ち「自給自足はサブカルチャーである」それが私の自給自足感です。

 

 そのような考え方のメリットは、音楽やファッションなどいろんなジャンルに広がっていく面白さがあります。もともと自給自足は人の基本的な営みを見極めることろからスタートします。シンプルな方向にね。でも、その基本的な営みから見る世界は多様で無限の可能性に満ちている。私的には両方とも自給自足に必要な視点だと思うのです。